80年目の春に
「保育園がつぶれそうだ!」37年前の56豪雪です。高校生だった私、血相かえた父とともにスコップをもって保育園にいきました。園舎が背丈ほどある雪を背負っています。ほどなく役員さんたちも駆けつけました。「自分の家も大変なのに、みんな、ありがとう」父の安堵の顔が忘れられません。高校生だった私は将来、園長になるなんて微塵ほど思っていませんでした。「白魔」という新聞の見出しに、父は納得いかない様子でした。「不自由で、苦労するからこそ、みんなが助け合う」だから「雪は温かいんだ」力説していました。
さて、今回の豪雪。一人一台のクルマの普及で道路は大渋滞。県境を越えて食料品が届くはずのスーパーの棚は空っぽ。37年前より進歩したはずの便利で快適な生活は、なんて脆いのでしょう。
一方で、困っている人を助けたり、助けられたり、思いがけない学校のお休みで、子どもたちとの雪遊び。家族や近所の人との雪かきの共同作業。普段は気にかけることもなかった人とのつながりを、たくさん感じました。
「お父さんがかまくら作って中に入った!」「兄ちゃんと雪のお山からすべってあそんだ」みんな競うように話してくれます。大人にとっては迷惑千万な大雪も、子どもたちにとっては天からのプレゼント。「雪の道で、クルマがボヨンボヨン!って、おもしろかった!」たぶん、ママは必死だったんでしょうが、子どもって、なんでもワクワク、ドキドキに変えてしまう才能がありますね。
わが家でもまる一週間高校が休みになった息子たちに、どんどん雪かきをさせました。ママさんダンプ、ここから向こうまで頼んだぞ。ズリズリ…(その場で両足が空転)。なに遊んでるんや?「うごかん…」腰が入ってないからや、ホレ!「おお」。もっぱら消費するだけだった息子たちの労働の経験になりました。
行けない、出来ない、届かない、動かない…「ない」だらけの10日間は、人と人のふれあい、助けあい、支えあい…「あい」がいっぱいの10日間でもありました。父の言った「雪は温かい」の意味が、今の私にはよくわかります。
仏教では「無財の七施」ということをいいます。財力がない私たちでもできる布施行です。「眼施」(やさしい眼差し)「和顔悦色施」(和やかな顔)「言辞施」(やさしい言葉)「身施」(自分の身体でできることをする)「心施」(他人に心をくだく)「床座施」(場所をゆずる)「房舎施」(居場所を提供する)。すべてが真っ白になった2月、雪がもたらした様々な光景と重なります。
保育園の玄関には「和顔愛語」(和やかな顔とやさしい言葉)の祖父の揮毫があります。二葉は80年目の春を迎えます。雪は駐車場の片隅の小さなカタマリになりました。雪は消えても消えない人の温もり、子や孫に、伝えていきたいものです。