余計と余白
お盆に高校のアーチェリー部の同窓会がありました。居酒屋さんの入り口で挨拶してきたのは味真野小学校の保健の先生。「いつもどうも、先生もこちらですか」といいつつ、席につくと、先生も隅っこに座りました。「あれれ?」実は私の4期下の後輩でした。「先生」は前から知っていたそうです。いや、世の中は狭いものです。
アーチェリーは西洋の弓です。今はオリンピックでしか見ませんね。最近は競技人口が減ってしまい、メーカーも次々と撤退して風前のともし火です。元来は日本の弓のように、ごくシンプルなものだったのですが、ここ30年ほど、正反対の道を歩みました。素材が木からグラスファイバー、カーボンファイバーに、ミリ単位の照準器がつき、緩衝器がつき、重りがつき…。冷静に見ると滑稽な弓の化け物みたいになってしまいました。メーカーも選手の要求にこたえて、こぞって凝った道具を次々と作って売り出しました。結果は…みんなが大体、的の中央に入るようになっただけで、競技の魅力は増しませんでした。お金がかかるようになっただけ、というか、逆にお金をかけないと楽しめない競技になってしまったのです。精神を集中して矢を的に当てる、という競技の基本を忘れた結果でした。
お客さんのニーズを先回りしてどんどん探り、掘り起こして、それに応えていくと、余計なお世話になって、どこかへ本質を置き忘れてしまうことだってあるのです。
この夏、59円のハンバーガーが復活しました。元の値段に戻したら売上が落ちて慌ててまた下げたそうです。一度、「うちのハンバーガーは59円の価値です!」って宣言した以上、お客さんはいまさら、それ以上のお金は出しませんね。当たり前です。そもそも価格で勝負したのが間違いでは…。安いに越したことはないけれど、私たちが一番食べたいのは安心でおいしいハンバーガーですよね。
宅急便、写真のプリント、クリーニングの取次ぎ、親子用の朝定食。保育園でもこうしたサービスをするところがでてきました。付加価値を高めるそうです。ないよりはあったほうが便利でしょうが、たいした付加価値でもないような気がします。保育園のお客さん(保護者)の本当のニーズってなんだろう、と思います。子どもがすくすくと育ち、親が安心して働けること。その上で私たちにできることを考えていきたいです。
大寄りでは、たくさんの園児や卒園児と会いました。買うのでなくても、歩いているだけで楽しいですね。ただ、夜店が減っているのは寂しいです。職人肌のテキヤさんが減り、だれでも焼ける小麦粉製品の店ばかりが目立つようになりました。それでも夜の賑わいは相変わらずです。夕涼み会もそうですが、こんな時代だからこそ、なんだかみんなが裸電球のぬくもりや人との出会いを求めているような気がします。
少し哀愁を帯びた「やんしき」の唄ごえ。子どもの頃は夏休みの終わりを感じたものです。もちろん残っている夏休みの宿題の重みも-。ああ、思い出しただけで気が重くなった…。
今年は踊りに例年になくたくさんの人が参加していました。準優勝は82歳のおばあちゃん。優勝者は…笠をとってびっくりしました。12歳の女の子でした。おばあちゃんも女の子も、余計なものがない、すがすがしい笑顔が印象的でした。
「人生の余白はひろし 永遠(とわ)の春」
祖父の俳句を思い出しました。
子どもでも老人でも、
人生の余白はいつも同じ広さですね。
「さあ、今日は余白に何を描こうか」なんて
毎朝、一日を始められたら、素晴らしいですね。